• 2017.11.07 Tuesday
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キリスト教の御利益

クリスチャンが、伝道する時、 つまり、クリスチャンでない人にイエスキリストのことを話したり、 聖書のことを話したりする時


伝道される側の関心は クリスチャンになると、何かいいことがあるのか? ということだと思う。何もいいことがなければ、メリットがなければクリスチャンになる理由もないからだ。

クリスチャンになるメリットって何だろう? クリスチャンになれば、お金持ちになれる?なれる人もいる かもしれないが、そうでない人の方が多い。

クリスチャンになれば、結婚相手が見つけやすくなる? 見つかるかもしれないが、見つからないかもしれない。 仕事が見つかる?見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。

クリスチャンになっても、悪いことは起きるし、生活に何か劇的な変化がすぐに 起きるわけでもない。

人が宗教を信じる場合、何かのメリットがないと入信しない。 病気が治るとか、先祖の呪いが解けるとか、他にもあるだろうか。 いわゆる、御利益がないと、信じる理由がない。至極まっとうな話だ。

では、キリスト教の御利益って何だろう。 キリスト教はご利益宗教ではない?いや、そんなことはない。 キリスト教、というか正確にはキリストがもたらす御利益は確かにある。

それは、「救い」だ。

救いって言われても、抽象的でわからない。キリスト教ではよく救いとか罪とか、罪が赦されるとか言うけど、 そもそも罪って言われたって、よくわからない。当然だ。 救いを、どうやったら実感のわく言葉にできるだろう。

「自由」あるいは「解放」と言い換えた方がいいかな。 何らかの束縛や、抑圧から解き放たれて、自由になる。 もしくは、恐れや不安、心配から解放されて、自由になる。

これでもまだ抽象的でわかりにくい。私の場合、「食べていくためには、好きでないことでも仕事を見つけて生活していかなければならない」 という考え方に縛られていたことがあった。そこから解放された、 という経験がある。 その時は、ものすごい大きな、解放感と自由を感じた。

聖書によれば、真理はあなたがたを自由にする、とある。 これは、約束だ。

自由になる、というのは、何かの悪習慣から解放されることもそうだし、将来への漠然とした不安や恐れから解放されることもそうだ。

あるいは、死への恐れから解放されることも、そう。

クリスチャンになれば、自由になれる。 それは、どのような自由なのか、何からの解放なのか。

それは、人それぞれ違うだろう。実際に味わってみないと、わからない。

AIと人間

最近、AIについて興味がある。

 

あと15年後くらいに、AIが人間の知能を超える時「シンギュラリティ」が来るらしい。将来AIによってなされる仕事が増えていくのは間違いない。

 

ニュースで、AIとAI同士を会話させたら、人間に理解不能な言語を話し出したとして 緊急停止させたとか。AIの進化を考えると、

恐ろしくもなる。

 

AIが急速に進化し、私たちの生活に影響を及ぼすのを止めることはできない。どちらかというと、ネガティブな面の方が多いように感じる。

 

私は今、AIについて疑問に思っているのは、AIは「自我」を獲得できるのか、という問いだ。

 

AIは自ら学習し、どんどん賢くなっていく。 将棋もチェスも、もう人間は、AIに勝つことができなくなってきている。

 

そしてAIはやがて、様々な感情をもつようになるだろう。見た目を同じにできれば、そのAIを搭載したロボットは 人間に限りなく近くなる。ロボットなのだから、物理的な力や器用さは 人間はかなわなくなる。頭脳にしたって、記憶は無限、判断は正確、エネルギーを チャージし続ければ、疲れることもない。 人間には勝ち目がないように思える。

 

では、人間とAI搭載ロボットを区別するための、最後の砦は何なのか。

 

それが、自我なのではないかと思う。自我、つまり自分が、他人ではなく自分であると感じる感覚。

 

私は私であり、他の誰々ではない、と感じる感覚。そして、自分という人間は「世界の一部」であるという感覚。

 

何か大いなる、自分を 超える何かによって作られた宇宙、世界の一部であるという感覚。 それはつまり、世界を世界として認識できる感覚でもある。

 

人間以外の動物は、もちろん究極的にはわからないが、この感覚は持っていないだろう。 これが、自我であると私は考えている。 

 

そして、プログラミングによりつくられたAIは、このような自我を持つことは不可能であると、私は考えている。 感情や痛みなどは、その状態をプログラミングで実現することは可能だろう。

 

しかし、世界を世界と感じ、自分は世界ではないが、世界の一部であるという感覚を、人間あるいはAI自身がプログラミングにより実現することはできない。

 

なぜなら、それは上から与えられたものだからだ。

 

何か大いなるものを感じる感覚。畏怖するような感覚は、別に特定の宗教を 信じていなくても、どんな人でも持っている。その感覚こそ、人間と動物を区別するものであり、人間とAIを峻別する最後の砦なの ではないかと思う。

 

映画「マトリックス」にあるように、AIがいつか人間に対して戦争を起こす、なんてのも SFの世界の出来事ではもはやなく、十分リアリティのあることに思える。

 

今後、良くも悪くも、AIの進化が止められないことが確実な今、私たちはより、 人間の人間たるゆえん、私が他の誰でもなく私であるというこの、あまりに当たり前 だが、よく考えると奇跡のような実感を、大切していく必要があるのではないか。

 

そして、大いなるものに対して、畏怖する感覚を。

 

それを忘れてしまった時、人間は、おそらく、本当の意味でAIに支配されてしまう のかもしれない。あるいは、人間自身が、その

「大いなるもの」になろうとする 過ちを、再び犯すのかもしれない。

ふたたび

久々にブログを書いてみようと思った。

今、テーマについて思案中。

 

10年くらい放ったらかし状態なので、まずは

メンテナンスを行ってみよう。

 

英語でデボーション
最近、とある理由から英語学習を再開した。理由については後日また書こう。

やり方は、シンプル。日々のデボーション(早朝の聖書と祈りと黙想の時間)を、日本語でやっていたのを英語にする。

つまり、聖書を英語で読んで、英語で祈る。感じたことがあれば英語で書く。英語聖書は、本当はNIVが好きなのだが、手持ちのNIV聖書が字が小さすぎるので最近買ったIpad miniのアプリケーションを使って、ESV版を読んでいる。

英語学習を兼ねて英語で聖書を読んでいる人は結構いるかもしれないが、「英語で祈る」ことをやっている人は少ないのではないだろうか。が、これが結構効果ありそうだ。

独学だと、話す訓練を毎日やるのが難しい。英語話者の友達としょっちゅう会える人もいるかもしれないが、毎日というわけにはなかなかいかないだろう。最近はWeb技術の発達から、スカイプで英会話練習なんてのもあるみたいだが、毎日決まった時間に、無料で行うのは難しいと思う。

最初は、英語で祈ろうとしても、どうやって祈っていいかわからない。身にしみついた日本語の祈りを頭の中で翻訳してなんとか祈ろうとするが、出てくるのはLord, thank you for this time... くらいのものだ。

だから、お手本が必要だ。私は、祈りの本で評判の高い、ストーミー・オマーティアン師の本を使っている。祈りの見本があるので、それを音読する。もちろん感情をこめて。すると、祈りによく使う単語とか、文章のパターンが、少しづつ身についてくる。

加えて、やってみて感じたのだが、英語で祈るというのは不思議な感覚だ。日本語だと、何かかしこまってしまうというか、普段家族や友達には使わないような言葉を使ってしまったりするのだが、英語だとストレートに感情を出せるというか。

「主よ、あなたは私の救い主、あがない主です」という風にはなかなかストレートに呼びかけられないが、英語だと"Lord, You are my savior,my redeemer..."という具合にスムーズに言葉が出てくる。

これはおそらく、英語という、母国語と比べて自分にとって少し距離のある言語を使っているために、微妙な意味とか語感を、母国語に比べてつかみきれないことが、かえってプラスに働いているのではないか、と個人的に感じた。

祈りのいいところは、いつでも、どこでもできることだ。祈ろうとして、「この言い方は英語で何ていうのだろう」ということがよくあるが、そんな時はメモっておいて、後で和英辞書とかインターネットで調べればいい。そんな具合にしてボキャブラリーも増えていく。

ただ、もちろん学習の中心は読むことだ。読んで、蓄積しないと中から出てこない。英語で聖書を読み、英語で祈る。そしてできれば説教を英語で聞く。

日本語に比べて、最初のうちはどうしても時間がかかってしまうが、クリスチャンの英語学習者にとって、「英語でデボーション」は、1つの魅力的な方法だと思う。

まだ始めて1か月ほどなので、どれだけ効果があったかはまた後日。

リベラルな西南
 私が学んでいる西南学院大学神学部は、神学校の中でもリベラルな神学校として知られている。

リベラル、と言うと一般的には進歩的という意味で、保守的、コンサバの反意語である。キリスト教においては、カトリックは概して保守的である。例えば、妊娠中絶などの生命倫理や、性についての事柄に対する態度とか。

プロテスタントは、教派、あるいは個人によっていろんな立場があるだろう。ここで問題にしたいのは、聖書の言葉をどうとらえるかの態度について。西南がリベラル、と言われるのは、そのことだと思われるから。前提としては、聖書は神の言葉である、という信仰がある。この「神の言葉である」の内実に、実に広い幅があるのである。

最も保守的なとらえ方は、いわゆる「逐語霊感説」であり、聖書の言葉は一字一句、霊感を受けた誤りのない神の言葉、という理解。当然、聖書は完全で歴史的にも科学的にも誤りのない内容である、ということになる。

逆の、最もリベラルというのは定義しにくいが、聖書を一冊の書物として捉えるというより、歴史的な文書、口伝などの伝承、諸資料の集まりとして捉える。そして、人間によって書かれたのだから当然誤りも含まれる、ということになる。神の霊が働いたとしても、そこには必ず人間の解釈が入りこむ、と考えるわけである。西南の聖書学の立場は、基本的にこれである。

つまり、前者は、聖書の「神(聖霊)によって書かれた」という要素を最も強調する見方であり、後者は「人間によって書かれた」という要素を最も強調する見方といえるだろう。

クリスチャンは、普通前者の捉え方をする。聖書は全て誤りのない神の言葉。そして、聖書を通して、神様は一人一人のクリスチャンに、語りかける。

それで十分と言えば十分である。でもそれなら、何故神は、聖書を完成させるまでに数百年という時をかけて、様々な職業からなる、数十人の著者を用いたのだろうか。モーセの十戒みたいに、完成版の聖書を天からポトリと落としてくれてもよかったのに。冗談でなく本気でそう思う。そうではなく、神は時をかけて、多くの人間の手と、意思決定によって聖書を私たちに与えるという方法を選ばれた。そこにはどんな目的があるのだろうか。

論理的には、逐語霊感説が成立するためには、全ての著者が、聖書を執筆する時、更には資料を集めるとき、伝承を聞くとき、聖霊によってコントロールされていなければならないことになる。そして、正典として決定がなされるまでの多くの公会議の決定のプロセスにおいても、すべて。

聖書に対して、私たちキリスト者がとるべき態度として、いつも帰ってくる地点は既に決まっている。それは、聖書はすべて神の言葉である、ということである。しかしそれは、一語一句全てが霊感によって書かれ歴史的にも誤りがない、ということを必ずしも意味しない、と私は考えている。

その神の言葉が、人間の手によって、歴史的にどのようなプロセスを経て出来上がったのかを知ることなしには、聖書の本当の奥深さに触れることはできないだろう。約2000年前に書かれた言葉が、今を生きる私たちに、いかなる意味をもつのかを知るために、あえて「人間の手によって書かれた」部分に注目するのである。

それはまるで、地層の調査のようなものだ。表面に見える地層は、時代の異なる複数の層からなる。その目に見える部分全体としての「意味」を知るためには、各層がどの時代のものなのか、各層を構成する石や土の種類は何なのかを知らなくてはならない。表面に見える地層は、見栄えがするし、何らかの印象を与えるだろうが、見ているだけでは、それ以上のことはわからない。

聖書も同じだ。神の言葉として、普通に読むだけでも十分魅力的だし面白い。しかし地層を調査するかのごとく、「どのように書かれたのか、出来上がったのか」を知ることにより、ただ表面を見ていただけではわからないことが、見えてくることがあるのである。

それが何なのかは、実際にやってみないとわからない。

ただ、私個人としては、西南の「リベラル」な聖書学に触れて、聖書がますます面白くなった。これだけは確かである。


忍耐

天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
伝道の書 3:1、8

忍耐とは、「たえしのぶ」と書くが、

その本質は「満足の遅延」である。

食べたいとき、その欲求をわきに置き、

怒りにまかせて、わめきちらしたいとき、
言葉を発するのをぐっとこらえる。

何かの欲求を「今すぐに実現したい!」という、自我
が発する声に抵抗し、その実現の時を遅らせること
である。

これは、言い換えれば、「自分の時」と「神の時」を
調整することである。

私は、いますぐあれがしたい、この欲求を満たしたい。
切実な欲求である。

しかし、今がそれをするのに、最適な時でないかも
しれない。神の時でないかもしれない。

食欲とか睡眠欲とかについては、その欲求の実現
を遅らせることができなくても、それほど影響はない
かもしれないが、

喧嘩してしまった友人と和解しようとするとき、
「早く仲直りしたい」という思いから、あせって会いに行いに
行けば、かえって関係がこじれてしまうかもしれない。

だから、祈りつつ、神の時を待つ。
今すぐに行動したい、という衝動をぐっとこらえて。

これこそ、忍耐ではないだろうか。

だから、神の時が必ず来ることを信じる信仰が、忍耐を
支える根底にある。

人間が行う業が、神のタイミングでなされるとき、
それは、最も美しい結果をもたらすだろう。

神学とは
神学校へ入学して、1ヶ月半ほどたった。

入学前、イメージがつかみにくかった「神学」という学問について、少し輪郭が見えてきたので、ここで紹介したい。興味のある方は、お読みいただきたいと思う。

神学とは、信仰の反省のことである。

神学とは、英語の「theology」が語源では「theos(神)」と「logia(語る)」から構成されることからわかるように、「神について語る」ことでもある。

この2つが本質を表現していると思うのだが、19世紀のドイツの神学者、シュライエルマッハーの分類によれば、学問的には以下の4つに分類されるという。

1.聖書神学(新約神学、旧約神学)
2.歴史神学
3.組織神学(教義学)
4.実践神学

1は、それぞれ新約聖書、旧約聖書について深く学ぶものだからイメージしやすいと思う。原典からの釈義を学んだりするのもこれに含まれる。

2は、歴史であるから、イエスの復活後成立した最初期キリスト教からの、教会の歴史、信仰者の歴史、などである。キリスト教を、時間軸という「横軸」から見ていくわけだ。これもイメージしやすい。

3は、2の横軸で見る歴史神学に対して、「縦軸」で見る神学である。つまり、時間的変化を考えず、聖書全体からどのような教え、つまり「教義」(ドグマ)が導き出されるのかを考える神学である。キリスト論、贖罪論、三位一体論、などがこれにあたる。

4は、その名のとおり神学の「実践」である。1〜3の神学の知識を、いかに現実の「現場」に応用していくのかを考える神学である。現場の神学と言えばわかりやすいかもしれない。牧会学、教会形成論、宣教学などがこれにあてはまる。

非常におおざっぱな説明で、不正確なところもあるかもしれないが、だいたいこんな感じである。

授業では、1から4すべて学んでいるが、一番面白いと感じるのは、やはり4の「実践神学」だ。当然ながら、牧師経験のある先生が教えるわけだから、体験談がふんだんに含まれていて実に面白い。

とは言っても、実践神学は1〜3の神学の基礎があって初めて成り立つものだから、全部バランスよくやる必要があるのはもちろんであるが。

一般信徒にはなじみの薄い「神学」をもう少し身近になるように既に学んだ者たちが努力すれば、神学を学ぼうとする人も増えるだろうし、それにより牧師や教師になろうと思う人も、増えてくるのでは
なかろうか。

なぜなら、神学はとても、おもしろいから。
あれから
4月になり、新しい年度がはじまった。

もう2年近く、ブログをほったらかしにしてしまったので、
その間の出来事をまとめて書くのもなかなか難しいが
書いてみよう。

2007年10月、教会で出会った姉妹と結婚。
2008年12月、長男誕生
2009年4月、神学校(西南学院大学神学部)入学

と、 極めて大きなイベントに絞ると、この3つ。
でも、この3つを書けば、私の人生を、主が背後で確実に導いて
くださっていることが、伝わると思う。

なにせ、結婚からたった1年半ほど前までは、スーパーで
1日3時間アルバイトするのが精一杯だった男が、人生の
パートナーが与えられ、新しい家族が与えられ、そして念願
だった、神学校への道も開かれたのである。

2006年2月に、病気から完全に開放されてから、約3年。
私の努力や、力などの結果では、全くない。

すべては主の導き、恵みである。

上の3つの出来事については、証しとしてまた改めて
詳しく書きたいと思う。
お知らせ
多忙につき、ほったらかし状態が続いています。
来てくださる方々、本当に申し訳ありません。

4月から、週1〜2週に一度程度のペースで更新を
再開しようと思っています。

よろしくお願いします。
ナウシカとキリスト
さっきまで、TVで「風の谷のナウシカ」を見ていた。

もう10回以上見ている、大好きな宮崎作品だが、クリスチャンになってから見るのは初めて。

途中から、あることに気づいてきた。ナウシカとイエス・キリストが重なって見えてきた。そのきっかけは、映画の後半、ナウシカが自分のグライダーから離れて両手を広げて「やめて〜!」と叫ぶシーンだった。この両手を広げたナウシカが、十字架にかけられたイエス様とだぶった。

映画のラストで、風の谷に向かって狂ったように走るオームの群れ。赤色の光も含めて、これは人間の罪に対する、神の怒りを象徴しているように思えた。

細かいいきさつは覚えていないが、オームの群れをおびき寄せたのはペジテ国で、オームの子供をとらえて傷つけ、そしてそれをつるしておとりにした。その目的は、風の谷にいる敵国トルメキアを全滅させるため。

映画の中で何回かナウシカその他の人物が、ペジテとトルメキアに対して「同じようなことをしている。」と指摘していた。この両国の争いに象徴されるように、人間の戦争には真の正義などない。どっちも自分が正しいと思っている。同じ穴のムジナということ。

巨神兵までも利用として戦おうとするこの両国の罪、それは人間の罪を象徴しているものだが、それに対して神の怒りがオームの群れとなって押し寄せた。

そこに、一人自分の命を投げ出して風の谷だけでなく、ペジテ、トルメキア両国まで救ったナウシカ。彼女の、身を呈した行為の後に、オームの群れの赤の攻撃色が、徐々に水色に変えられていく。

まさにこれは、キリストの十字架のみわざ、ひとつの義の行為により、全ての罪が赦されるという、キリストの愛の「型」と言えるシーンではないか。

さらにナウシカは一度死んでしまったが、オームの愛、それは神の愛を象徴しているのだが、愛によりよみがえった。この辺もキリストと重なる。金色の野を歩く復活後のナウシカは、再臨の時のキリストを彷彿とさせる。

というわけで、「ナウシカ」はとてもキリスト的な映画と言えるのではないだろうか。

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