• 2009.05.25 Monday
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忍耐

天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
伝道の書 3:1、8

忍耐とは、「たえしのぶ」と書くが、

その本質は「満足の遅延」である。

食べたいとき、その欲求をわきに置き、

怒りにまかせて、わめきちらしたいとき、
言葉を発するのをぐっとこらえる。

何かの欲求を「今すぐに実現したい!」という、自我
が発する声に抵抗し、その実現の時を遅らせること
である。

これは、言い換えれば、「自分の時」と「神の時」を
調整することである。

私は、いますぐあれがしたい、この欲求を満たしたい。
切実な欲求である。

しかし、今がそれをするのに、最適な時でないかも
しれない。神の時でないかもしれない。

食欲とか睡眠欲とかについては、その欲求の実現
を遅らせることができなくても、それほど影響はない
かもしれないが、

喧嘩してしまった友人と和解しようとするとき、
「早く仲直りしたい」という思いから、あせって会いに行いに
行けば、かえって関係がこじれてしまうかもしれない。

だから、祈りつつ、神の時を待つ。
今すぐに行動したい、という衝動をぐっとこらえて。

これこそ、忍耐ではないだろうか。

だから、神の時が必ず来ることを信じる信仰が、忍耐を
支える根底にある。

人間が行う業が、神のタイミングでなされるとき、
それは、最も美しい結果をもたらすだろう。

神学とは
神学校へ入学して、1ヶ月半ほどたった。

入学前、イメージがつかみにくかった「神学」という学問について、少し輪郭が見えてきたので、ここで紹介したい。興味のある方は、お読みいただきたいと思う。

神学とは、信仰の反省のことである。

神学とは、英語の「theology」が語源では「theos(神)」と「logia(語る)」から構成されることからわかるように、「神について語る」ことでもある。

この2つが本質を表現していると思うのだが、19世紀のドイツの神学者、シュライエルマッハーの分類によれば、学問的には以下の4つに分類されるという。

1.聖書神学(新約神学、旧約神学)
2.歴史神学
3.組織神学(教義学)
4.実践神学

1は、それぞれ新約聖書、旧約聖書について深く学ぶものだからイメージしやすいと思う。原典からの釈義を学んだりするのもこれに含まれる。

2は、歴史であるから、イエスの復活後成立した最初期キリスト教からの、教会の歴史、信仰者の歴史、などである。キリスト教を、時間軸という「横軸」から見ていくわけだ。これもイメージしやすい。

3は、2の横軸で見る歴史神学に対して、「縦軸」で見る神学である。つまり、時間的変化を考えず、聖書全体からどのような教え、つまり「教義」(ドグマ)が導き出されるのかを考える神学である。キリスト論、贖罪論、三位一体論、などがこれにあたる。

4は、その名のとおり神学の「実践」である。1〜3の神学の知識を、いかに現実の「現場」に応用していくのかを考える神学である。現場の神学と言えばわかりやすいかもしれない。牧会学、教会形成論、宣教学などがこれにあてはまる。

非常におおざっぱな説明で、不正確なところもあるかもしれないが、だいたいこんな感じである。

授業では、1から4すべて学んでいるが、一番面白いと感じるのは、やはり4の「実践神学」だ。当然ながら、牧師経験のある先生が教えるわけだから、体験談がふんだんに含まれていて実に面白い。

とは言っても、実践神学は1〜3の神学の基礎があって初めて成り立つものだから、全部バランスよくやる必要があるのはもちろんであるが。

一般信徒にはなじみの薄い「神学」をもう少し身近になるように既に学んだ者たちが努力すれば、神学を学ぼうとする人も増えるだろうし、それにより牧師や教師になろうと思う人も、増えてくるのでは
なかろうか。

なぜなら、神学はとても、おもしろいから。
あれから
4月になり、新しい年度がはじまった。

もう2年近く、ブログをほったらかしにしてしまったので、
その間の出来事をまとめて書くのもなかなか難しいが
書いてみよう。

2007年10月、教会で出会った姉妹と結婚。
2008年12月、長男誕生
2009年4月、神学校(西南学院大学神学部)入学

と、 極めて大きなイベントに絞ると、この3つ。
でも、この3つを書けば、私の人生を、主が背後で確実に導いて
くださっていることが、伝わると思う。

なにせ、結婚からたった1年半ほど前までは、スーパーで
1日3時間アルバイトするのが精一杯だった男が、人生の
パートナーが与えられ、新しい家族が与えられ、そして念願
だった、神学校への道も開かれたのである。

2006年2月に、病気から完全に開放されてから、約3年。
私の努力や、力などの結果では、全くない。

すべては主の導き、恵みである。

上の3つの出来事については、証しとしてまた改めて
詳しく書きたいと思う。
お知らせ
多忙につき、ほったらかし状態が続いています。
来てくださる方々、本当に申し訳ありません。

4月から、週1〜2週に一度程度のペースで更新を
再開しようと思っています。

よろしくお願いします。
ナウシカとキリスト
さっきまで、TVで「風の谷のナウシカ」を見ていた。

もう10回以上見ている、大好きな宮崎作品だが、クリスチャンになってから見るのは初めて。

途中から、あることに気づいてきた。ナウシカとイエス・キリストが重なって見えてきた。そのきっかけは、映画の後半、ナウシカが自分のグライダーから離れて両手を広げて「やめて〜!」と叫ぶシーンだった。この両手を広げたナウシカが、十字架にかけられたイエス様とだぶった。

映画のラストで、風の谷に向かって狂ったように走るオームの群れ。赤色の光も含めて、これは人間の罪に対する、神の怒りを象徴しているように思えた。

細かいいきさつは覚えていないが、オームの群れをおびき寄せたのはペジテ国で、オームの子供をとらえて傷つけ、そしてそれをつるしておとりにした。その目的は、風の谷にいる敵国トルメキアを全滅させるため。

映画の中で何回かナウシカその他の人物が、ペジテとトルメキアに対して「同じようなことをしている。」と指摘していた。この両国の争いに象徴されるように、人間の戦争には真の正義などない。どっちも自分が正しいと思っている。同じ穴のムジナということ。

巨神兵までも利用として戦おうとするこの両国の罪、それは人間の罪を象徴しているものだが、それに対して神の怒りがオームの群れとなって押し寄せた。

そこに、一人自分の命を投げ出して風の谷だけでなく、ペジテ、トルメキア両国まで救ったナウシカ。彼女の、身を呈した行為の後に、オームの群れの赤の攻撃色が、徐々に水色に変えられていく。

まさにこれは、キリストの十字架のみわざ、ひとつの義の行為により、全ての罪が赦されるという、キリストの愛の「型」と言えるシーンではないか。

さらにナウシカは一度死んでしまったが、オームの愛、それは神の愛を象徴しているのだが、愛によりよみがえった。この辺もキリストと重なる。金色の野を歩く復活後のナウシカは、再臨の時のキリストを彷彿とさせる。

というわけで、「ナウシカ」はとてもキリスト的な映画と言えるのではないだろうか。

真に満たすお方
人間は、さまざまな欲求をもつ。

情欲、食欲、睡眠欲、名誉欲、物欲、金銭欲、知識欲、支配欲、征服欲など。

人に認められたいという欲求、好かれたいという欲求。ゲームなどをして「楽しいことをしたい」という欲求。「美味しいものを食べたい」という欲求。

睡眠欲や食欲のように、「満たされて、その状態から減っていき、また供給する」という性質のものもある。車がガソリンを必要とするように、人間が活動するには、睡眠、食料によって、活動によって減ったエネルギーを充填しなければならない。つまりこれらの欲求をためる器の大きさは、基本的には変わらない。減ったら、注ぐ。その繰り返し。

しかし、そのほかの欲求、情欲や名誉欲や物欲など、これらは性質が違う。常にエネルギーを注がれていないと活動できない、食欲や睡眠欲のような欲求ではない。活動によって減っていくから充填する、というようなものではない。

これらは、その欲求の器がどんどん「肥大」していく性質のものだ。

物欲がわかりやすいだろう。持てば持つほど、欲しくなる、ということ。

お金で言えば、貯金が増えれば増えるほど、もっと貯金したくなる。

何らかの功績で名誉を得れば、もっと大きな名誉が欲しくなる。課長になれば、部長になりたくなり、ゴールデン・グローブ賞を取れば、次はアカデミー賞が欲しくなる。

一見健全で好ましく見える、知識欲でも同じこと。知れば知るほど、知りたくなる。哲学者なんかその典型だろう。ただ自分の知りたいことを、自分のために知ろうとし続ける。

私は男性なので、情欲が一番わかりやすいかもしれない。

かつて私が性的不品行の罪の真っ只中にいたとき、満足や興奮を求めて、次々と新しい偶像を求めた。それは一瞬の満足を提供したかもしれないが、それだけだった。そして、それに飽きてしまい次の偶像を求める。この繰り返しだった。

物欲や名誉欲などでも、同じことではないだろうか。求めて、満足し、飽きてしまい、また求める。満ち足りた状態が継続することはない。

と。私がわざわざこんなことを書かなくても、実際に感じるか、もしくは考えつくかして、同様の結論に達している人も多いだろうと思う。そのような人は、「求道者」になっていくはず。人生の目的は、意味のある人生とは、真理はあるのか、あるとすれば何なのか。神は存在するのか。それらを求めるのが求道者。かつての私もそうだった。私は哲学に真理を求めたのだが、かじっただけで終わってしまった。

もしくは、ここ20年ほどの、日本の物質社会が国民に与えてきたものに人々が飽きてしまった結果、人々は人知を超えた「スピリチュアル」なものを求めるようになっているのかもしれない。

私たちが本当の意味で満足するには、私たちの「霊」が満たされなければならない。上で述べてきたような欲求は、すべて「肉」か「魂」に属するもの。それは全て二次的なものだ。

霊とは、私たち人間を人間たらしめるもの。人間において、神と対話する領域。人間以外の動物に霊は存在しない。もちろんそれを証明はできないが、私はそう信じている。

私たち人間は、霊的な存在ゆえに、本能的に神を求める。日本には「困ったときの神だのみ」なんてことわざもある。プロ野球選手もインタビューで「野球の神様に感謝したい」なんて平気で言う。これらの単純な事実が、私たち人間が霊的な存在であることを示していると私は思う。

そして、その霊を、満たしてくれるお方こそ、イエス・キリストである。

私たちを真に満たすものは、キリストである。キリスト以外にない。

キリストだけが、私たちを満たすことができる。

私たちは、決してキリストに飽きることはない。キリストを味わい尽くしてしまって、別のものが欲しくなるということは有り得ない。

なぜなら、私たちはキリストにはなれないから。

キリストをいただいた者は、キリストのようになりたいと願う。

キリストにはなれない。しかしキリストのようになることはできる。

キリストのようになること目指す人生が、最高の人生であると私は信じる。

その真の満足を得る方法は、実に簡単だ。

物欲や名誉欲を得るために必要になるような、労力などは全く必要ない。

お金もいらない、人間的努力もいらない。

ただ、単純に、求めればいい。

「私は自分の人生に満足できません。もしイエス・キリストが私を満足させることができるのなら、私にそれを教えてください。私はイエス・キリストのことが知りたいのです」

と、心の中で思うだけいい。

そうすれば、必ずイエス様は、その思いに答えてくださると、私は信じる。
恐るるに足らず
サタンは、本当に嫌らしい存在だ。

私たちが気づかないうちに、気づかないように、攻撃してくる。

あるときは、私たち自身の心に、直接誘惑という形で攻撃をしかけ、

あるときは、他者からの言葉による攻撃と言う形で、攻撃をしかけてくる。

そして、大抵の場合、どれがサタンの仕業で、どれが自分や他者の罪によるのかわからない。

だから、他者に対して、「あなたはサタンに惑わされている」などと言うことはできない。

自分に対して、「これはサタンの仕業なのだろうか」と問うことはできる。助けを求めて祈ることはできる。しかし、疲れていたり余裕を失っていたりすると、なかなか気づくことができない。

サタンの仕業なのに、それが自分の罪のせいだと思い込んでしまい、自分を責める。

そして、「自分は本当は救われていないのではないか」「もう神様は私のことなんか愛してくれないのではないか」という思いに至ることさえある。そうなれば、それこそサタンの思うツボだ。

サタンは、私たちのちょっとした心の隙をつくのに長けている。

ちょっとでも私たちが油断すれば、サタンは攻撃できる隙間を見つけ、そこから攻撃を開始する。

人から褒められたりしてちょっと得意になったり、

もしくは自分の苦手な領域に秀でている人を見て、ちょっと妬ましい気持ちになったり、

ついうっかり他人について、真実と少しずれたことを話してしまったり、

そんなわずかな心の油断、心の隙間を、サタンは見逃さない。

だから、私たちはいつも、気をつけていなければならない。

サタンに私たちの心を攻撃する機会を与えてはいけない。

しかし、私たちを勇気づける、以下の真実がある。

サタンの攻撃は、それがあるときはいつも、神様のフィルターを通してのみ、なされる。

神様は、サタンがどの人にどんな攻撃を加えようとしているのか、すべてご存じだ。

だから、その攻撃を止めることもできるし、攻撃から守ることもできる。

神様には、不可能はない。ゆえに、止めることのできない攻撃などない。

もし、神様が、サタンが攻撃するのを許されるとすれば、そこには神様の何らかの御旨があるからだ。

それがどのような意味をもつのか、いつもわかるとは限らない。わからないことの方が多いかもしれない。

しかし、神様は、私たちにとっては好ましくない、悪い出来事さえも、私たちの益に変えることに長けておられるお方だ。

そう考えれば、サタンの攻撃、恐るるに足らず、だ。


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決断
もう、4月も終わりになった。

私のブログを継続的にご覧になってくださっている方の中には、現在の私について、以下のような疑問をもたれている人もいるかも知れない。

「沖縄行きの話は、どうなったんだろう?もしかしてもう沖縄に行ってしまったのか?」

去年7月頃から、数回にわたって、YWAM(Youth With a Mission)、DTS(Diciple Training School)沖縄のことを書いてきた。それとの出会いと、導かれた過程について。

そして、今年度のDTS沖縄は、4月中旬に始まっている。

と、こう書けばもうおわかりだろうが、私は今、沖縄にはいない。実家のある横浜と、教会のある東京、埼玉を往復する生活が続いている。

つまり、沖縄行きを、断念した、ということ。

今年3月あたまくらいまでは、行く気マンマンと言うか、沖縄行きについてまったく迷いはなく、それが御心にかなったことだと信じていた。4月からの沖縄での生活と学びについて思いを馳せていた。

しかし、それから、あることをきっかけに「迷い」が生じてきた。

「果たして、今年の4月から半年間東京を離れることは、今の自分にとって望ましいのだろうか。4月からの半年間、沖縄で得られるであろうことと、沖縄へは行かずに今いる場所に留まって得られるであろうことは、今の自分にとってどちらが大事なのだろうか。」

私の中に「残留」という選択肢があらわれ、「沖縄行き」を完全に指していた心の針が、動きはじめた。

当然、祈りをもった。どちらに御心がかなっているのか、教えてください、と。

それからの私の心の変化は、上記の二つの選択肢のあいだで、心の針が「揺れ動く」という感じではなかった。動き出した針は、徐々に、「残留」に向かって動いていき、そして固まった。

残留すべきだ、ということを示すような、御言葉による示しがあったかというと、そうとれなくもない御言葉が与えられたことは確かだ。しかし、それだけを根拠にすることはもちろん、できなかった。

3月下旬には結論を出さねばならなかったため、残された時間は多くはなかった。だから私は、100%の確信があったわけではなかったのだが、「残留」の決断をくだした。自分が以前に書いた記事「踏み出す勇気」における状況を、まさに自分が味わうような形となった。

その決断を鈍らせる要素は、昨年6月のDTS沖縄との出会いと、それに「神様が呼んでいる」と私が信仰的に解釈した7月の出来事は、何を意味していたのか、という疑問だった。

この疑問に対する答えは、まだもっていない。

今は、与えられた今いる場所で、神様の栄光のために、全力をもってすすんでいくのみ、である。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
ピリピ 3:13-14


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祈りを聞いてくださる神様
水曜日の夜は、私が最近お世話になっている、宮原キリスト教会での祈り会。

牧師先生を囲んでの聖書の学びの後、各自が祈りのリクエストをノートに書き、二人か三人ずつにわかれて共にお互いの課題や、教会のことなどについて祈るときをもつ。

おととい水曜日の夜、私のノートに書かれた祈りのリクエストの1つは

「母親が、ふさわしい教会へ導かれますように」

であった。

私の母親はクリスチャンなのだが、最近教会からは離れてしまっている。横浜の実家の近くに、母親が喜んで礼拝に行くことができる、教会はないものかとずっと思っていた。

そして翌日木曜日。木曜日も午前中に、聖書の学びと祈り会が行なわれる。この日の祈りのときに、私とペアになった方は、初対面の男性であった。年は60歳前後だろうか。

今年年初に宮原教会の牧師先生と知り合ったのがきっかけで、この学び会にもたまに来るようになったとおっしゃっていた。教会の近くに住んでいるそう。「どこに住んでいるのですか?」と聞かれて「横浜です。最寄り駅は横須賀線の東戸塚駅です。」と答えたところ、なんと次のような答えが返ってきた。

「私の姉夫婦が、東戸塚で教会をやっている。一度お母さんといっしょに、遊びに行ってみてはいかがだろうか?」

なんでも、この男性のお姉さまが伝道師で、その旦那様が牧師だそう。そのご夫婦の息子夫婦も献身しているそうで、息子さんも牧師として牧会に携わっているとのことだった。

更にその教会について詳しく聞いていくうちに、私はその教会について、既に知っていることに気がついた。

私が東京バプテスト教会に導かれてから、いつだっただろうか。今から1年近く前かもしれない。実家近辺に良さそうな教会がないか、ネットで調べたことがあった。その時に、東戸塚駅から歩いていける、良さそうな教会を見つけたので、母親に話したことを思い出した。「そのうち行ってみようね」くらいの話になってそのままになってしまったが。

その教会こそ、男性が紹介してくれた教会だったのだ。HPを見たときに、とても雰囲気が良さそうな教会だな、と感じたので記憶に残っていた。

神様は、さっそく祈りの答えをこのような明確な形で示してくださった。

しかし、今はとても忙しいというのもあるが、まだ母親をその教会へ連れていく時ではないと感じている。

母親を教会へ連れていく、ふさわしいやり方と、時期も、神様が示してくださるだろう。

神様、本当にありがとう。


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見守ってくださる神さま
昨日の出来事。

埼玉から横浜へ帰る途中の話。京浜東北線で、横浜へと向かっていた。ホームで乗ろうとしている電車はめずらしい「東神奈川行き」で、横浜のひとつ手前の駅で終点になってしまう列車だった。その次に来るやつは蒲田止まり。

眠かったので、横浜までずっと座ってのんびりしていきたかったのだが、東神奈川駅で下りて別の列車に乗り換えるのが面倒くさかったので、ずっと京浜東北線に乗ってのんびりする代わりに、東京駅で東海道線に乗り換えて、横浜までさっさと帰ってしまうことにした。東京〜横浜間は東海道線の方がずっと速いので。

東京で京浜東北線を下りて、東海道線のホームに向かう。ホームに上がったとき、とあることに気がついた。

「しまった!!」

と思ったときは時既に遅し。というのは、持っていた自分のギターを、さっきの電車の棚に置いたまま、下りてしまったのである。

「あ〜あ、やっちゃった。どうしよう」

東京駅の遺失物届けセンターにでも早速行かなきゃかな、とも思ったが、すぐに次のような思いがきた。

「東海道線で追いかければ、さっきの列車に追いつけるんじゃないか?」

ホームの列車案内掲示板を見ると、次の列車は約3分後だった。このタイミングなら、川崎あたりで追いつけるかもしれない、と思った。

しかし、もし川崎で追いつけなければ、さっきの列車は横浜の1つ手前の東神奈川止まりなので、川崎で下りずにそのまま東海道線で横浜まで行ってしまって反対方向の京浜東北線で東神奈川まで向かっても、おそらく間に合わないであろうタイミングであった。間に合わなければ、ギターを残した列車は、再び大宮方面へ行くか、車庫へ帰ってしまうか、わからない。もしそうなると、ギターが手元に帰ってこないリスクはグンと上がる。

もちろん、追いつけたとしても、それまでに誰かがギターを持ってってしまう可能性もあった。ヤマハ製のそこそこいいギターなので。

間もなくやってきた東海道線に乗り込み、窓の外を眺めながら祈った。「神様、どうか私のギターを守ってください。私の手元に帰ってきますように!」と。

すると、川崎の手前の蒲田付近を走っているときに、窓の外にさっき乗ってた東神奈川行きの列車が見えてきた。なんとか追いついた。安堵のため息が出た。

川崎駅で東海道線を下り、京浜東北線のホームでギターを残した列車を待ち構えた。1分ほどですぐに来た。つまり、ギリギリ間に合ったということ。

出発した後、列車の先頭から歩いて棚の上を見ていくと、しばらく行ったところに、ありました!私のヤマハのギターが。

神様、ありがとう。これからも、このギターであなたを賛美するために練習に励みます!

東京駅で、あと数分列車が来るのが遅かったら、間に合わなかっただろう。

もう、ギターを電車の棚に乗せるのは、やめにしよう。それがいい。


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