• 2013.02.26 Tuesday
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英語でデボーション
最近、とある理由から英語学習を再開した。理由については後日また書こう。

やり方は、シンプル。日々のデボーション(早朝の聖書と祈りと黙想の時間)を、日本語でやっていたのを英語にする。

つまり、聖書を英語で読んで、英語で祈る。感じたことがあれば英語で書く。英語聖書は、本当はNIVが好きなのだが、手持ちのNIV聖書が字が小さすぎるので最近買ったIpad miniのアプリケーションを使って、ESV版を読んでいる。

英語学習を兼ねて英語で聖書を読んでいる人は結構いるかもしれないが、「英語で祈る」ことをやっている人は少ないのではないだろうか。が、これが結構効果ありそうだ。

独学だと、話す訓練を毎日やるのが難しい。英語話者の友達としょっちゅう会える人もいるかもしれないが、毎日というわけにはなかなかいかないだろう。最近はWeb技術の発達から、スカイプで英会話練習なんてのもあるみたいだが、毎日決まった時間に、無料で行うのは難しいと思う。

最初は、英語で祈ろうとしても、どうやって祈っていいかわからない。身にしみついた日本語の祈りを頭の中で翻訳してなんとか祈ろうとするが、出てくるのはLord, thank you for this time... くらいのものだ。

だから、お手本が必要だ。私は、祈りの本で評判の高い、ストーミー・オマーティアン師の本を使っている。祈りの見本があるので、それを音読する。もちろん感情をこめて。すると、祈りによく使う単語とか、文章のパターンが、少しづつ身についてくる。

加えて、やってみて感じたのだが、英語で祈るというのは不思議な感覚だ。日本語だと、何かかしこまってしまうというか、普段家族や友達には使わないような言葉を使ってしまったりするのだが、英語だとストレートに感情を出せるというか。

「主よ、あなたは私の救い主、あがない主です」という風にはなかなかストレートに呼びかけられないが、英語だと"Lord, You are my savior,my redeemer..."という具合にスムーズに言葉が出てくる。

これはおそらく、英語という、母国語と比べて自分にとって少し距離のある言語を使っているために、微妙な意味とか語感を、母国語に比べてつかみきれないことが、かえってプラスに働いているのではないか、と個人的に感じた。

祈りのいいところは、いつでも、どこでもできることだ。祈ろうとして、「この言い方は英語で何ていうのだろう」ということがよくあるが、そんな時はメモっておいて、後で和英辞書とかインターネットで調べればいい。そんな具合にしてボキャブラリーも増えていく。

ただ、もちろん学習の中心は読むことだ。読んで、蓄積しないと中から出てこない。英語で聖書を読み、英語で祈る。そしてできれば説教を英語で聞く。

日本語に比べて、最初のうちはどうしても時間がかかってしまうが、クリスチャンの英語学習者にとって、「英語でデボーション」は、1つの魅力的な方法だと思う。

まだ始めて1か月ほどなので、どれだけ効果があったかはまた後日。

リベラルな西南
 私が学んでいる西南学院大学神学部は、神学校の中でもリベラルな神学校として知られている。

リベラル、と言うと一般的には進歩的という意味で、保守的、コンサバの反意語である。キリスト教においては、カトリックは概して保守的である。例えば、妊娠中絶などの生命倫理や、性についての事柄に対する態度とか。

プロテスタントは、教派、あるいは個人によっていろんな立場があるだろう。ここで問題にしたいのは、聖書の言葉をどうとらえるかの態度について。西南がリベラル、と言われるのは、そのことだと思われるから。前提としては、聖書は神の言葉である、という信仰がある。この「神の言葉である」の内実に、実に広い幅があるのである。

最も保守的なとらえ方は、いわゆる「逐語霊感説」であり、聖書の言葉は一字一句、霊感を受けた誤りのない神の言葉、という理解。当然、聖書は完全で歴史的にも科学的にも誤りのない内容である、ということになる。

逆の、最もリベラルというのは定義しにくいが、聖書を一冊の書物として捉えるというより、歴史的な文書、口伝などの伝承、諸資料の集まりとして捉える。そして、人間によって書かれたのだから当然誤りも含まれる、ということになる。神の霊が働いたとしても、そこには必ず人間の解釈が入りこむ、と考えるわけである。西南の聖書学の立場は、基本的にこれである。

つまり、前者は、聖書の「神(聖霊)によって書かれた」という要素を最も強調する見方であり、後者は「人間によって書かれた」という要素を最も強調する見方といえるだろう。

クリスチャンは、普通前者の捉え方をする。聖書は全て誤りのない神の言葉。そして、聖書を通して、神様は一人一人のクリスチャンに、語りかける。

それで十分と言えば十分である。でもそれなら、何故神は、聖書を完成させるまでに数百年という時をかけて、様々な職業からなる、数十人の著者を用いたのだろうか。モーセの十戒みたいに、完成版の聖書を天からポトリと落としてくれてもよかったのに。冗談でなく本気でそう思う。そうではなく、神は時をかけて、多くの人間の手と、意思決定によって聖書を私たちに与えるという方法を選ばれた。そこにはどんな目的があるのだろうか。

論理的には、逐語霊感説が成立するためには、全ての著者が、聖書を執筆する時、更には資料を集めるとき、伝承を聞くとき、聖霊によってコントロールされていなければならないことになる。そして、正典として決定がなされるまでの多くの公会議の決定のプロセスにおいても、すべて。

聖書に対して、私たちキリスト者がとるべき態度として、いつも帰ってくる地点は既に決まっている。それは、聖書はすべて神の言葉である、ということである。しかしそれは、一語一句全てが霊感によって書かれ歴史的にも誤りがない、ということを必ずしも意味しない、と私は考えている。

その神の言葉が、人間の手によって、歴史的にどのようなプロセスを経て出来上がったのかを知ることなしには、聖書の本当の奥深さに触れることはできないだろう。約2000年前に書かれた言葉が、今を生きる私たちに、いかなる意味をもつのかを知るために、あえて「人間の手によって書かれた」部分に注目するのである。

それはまるで、地層の調査のようなものだ。表面に見える地層は、時代の異なる複数の層からなる。その目に見える部分全体としての「意味」を知るためには、各層がどの時代のものなのか、各層を構成する石や土の種類は何なのかを知らなくてはならない。表面に見える地層は、見栄えがするし、何らかの印象を与えるだろうが、見ているだけでは、それ以上のことはわからない。

聖書も同じだ。神の言葉として、普通に読むだけでも十分魅力的だし面白い。しかし地層を調査するかのごとく、「どのように書かれたのか、出来上がったのか」を知ることにより、ただ表面を見ていただけではわからないことが、見えてくることがあるのである。

それが何なのかは、実際にやってみないとわからない。

ただ、私個人としては、西南の「リベラル」な聖書学に触れて、聖書がますます面白くなった。これだけは確かである。


忍耐

天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
伝道の書 3:1、8

忍耐とは、「たえしのぶ」と書くが、

その本質は「満足の遅延」である。

食べたいとき、その欲求をわきに置き、

怒りにまかせて、わめきちらしたいとき、
言葉を発するのをぐっとこらえる。

何かの欲求を「今すぐに実現したい!」という、自我
が発する声に抵抗し、その実現の時を遅らせること
である。

これは、言い換えれば、「自分の時」と「神の時」を
調整することである。

私は、いますぐあれがしたい、この欲求を満たしたい。
切実な欲求である。

しかし、今がそれをするのに、最適な時でないかも
しれない。神の時でないかもしれない。

食欲とか睡眠欲とかについては、その欲求の実現
を遅らせることができなくても、それほど影響はない
かもしれないが、

喧嘩してしまった友人と和解しようとするとき、
「早く仲直りしたい」という思いから、あせって会いに行いに
行けば、かえって関係がこじれてしまうかもしれない。

だから、祈りつつ、神の時を待つ。
今すぐに行動したい、という衝動をぐっとこらえて。

これこそ、忍耐ではないだろうか。

だから、神の時が必ず来ることを信じる信仰が、忍耐を
支える根底にある。

人間が行う業が、神のタイミングでなされるとき、
それは、最も美しい結果をもたらすだろう。

神学とは
神学校へ入学して、1ヶ月半ほどたった。

入学前、イメージがつかみにくかった「神学」という学問について、少し輪郭が見えてきたので、ここで紹介したい。興味のある方は、お読みいただきたいと思う。

神学とは、信仰の反省のことである。

神学とは、英語の「theology」が語源では「theos(神)」と「logia(語る)」から構成されることからわかるように、「神について語る」ことでもある。

この2つが本質を表現していると思うのだが、19世紀のドイツの神学者、シュライエルマッハーの分類によれば、学問的には以下の4つに分類されるという。

1.聖書神学(新約神学、旧約神学)
2.歴史神学
3.組織神学(教義学)
4.実践神学

1は、それぞれ新約聖書、旧約聖書について深く学ぶものだからイメージしやすいと思う。原典からの釈義を学んだりするのもこれに含まれる。

2は、歴史であるから、イエスの復活後成立した最初期キリスト教からの、教会の歴史、信仰者の歴史、などである。キリスト教を、時間軸という「横軸」から見ていくわけだ。これもイメージしやすい。

3は、2の横軸で見る歴史神学に対して、「縦軸」で見る神学である。つまり、時間的変化を考えず、聖書全体からどのような教え、つまり「教義」(ドグマ)が導き出されるのかを考える神学である。キリスト論、贖罪論、三位一体論、などがこれにあたる。

4は、その名のとおり神学の「実践」である。1〜3の神学の知識を、いかに現実の「現場」に応用していくのかを考える神学である。現場の神学と言えばわかりやすいかもしれない。牧会学、教会形成論、宣教学などがこれにあてはまる。

非常におおざっぱな説明で、不正確なところもあるかもしれないが、だいたいこんな感じである。

授業では、1から4すべて学んでいるが、一番面白いと感じるのは、やはり4の「実践神学」だ。当然ながら、牧師経験のある先生が教えるわけだから、体験談がふんだんに含まれていて実に面白い。

とは言っても、実践神学は1〜3の神学の基礎があって初めて成り立つものだから、全部バランスよくやる必要があるのはもちろんであるが。

一般信徒にはなじみの薄い「神学」をもう少し身近になるように既に学んだ者たちが努力すれば、神学を学ぼうとする人も増えるだろうし、それにより牧師や教師になろうと思う人も、増えてくるのでは
なかろうか。

なぜなら、神学はとても、おもしろいから。
あれから
4月になり、新しい年度がはじまった。

もう2年近く、ブログをほったらかしにしてしまったので、
その間の出来事をまとめて書くのもなかなか難しいが
書いてみよう。

2007年10月、教会で出会った姉妹と結婚。
2008年12月、長男誕生
2009年4月、神学校(西南学院大学神学部)入学

と、 極めて大きなイベントに絞ると、この3つ。
でも、この3つを書けば、私の人生を、主が背後で確実に導いて
くださっていることが、伝わると思う。

なにせ、結婚からたった1年半ほど前までは、スーパーで
1日3時間アルバイトするのが精一杯だった男が、人生の
パートナーが与えられ、新しい家族が与えられ、そして念願
だった、神学校への道も開かれたのである。

2006年2月に、病気から完全に開放されてから、約3年。
私の努力や、力などの結果では、全くない。

すべては主の導き、恵みである。

上の3つの出来事については、証しとしてまた改めて
詳しく書きたいと思う。
お知らせ
多忙につき、ほったらかし状態が続いています。
来てくださる方々、本当に申し訳ありません。

4月から、週1〜2週に一度程度のペースで更新を
再開しようと思っています。

よろしくお願いします。
ナウシカとキリスト
さっきまで、TVで「風の谷のナウシカ」を見ていた。

もう10回以上見ている、大好きな宮崎作品だが、クリスチャンになってから見るのは初めて。

途中から、あることに気づいてきた。ナウシカとイエス・キリストが重なって見えてきた。そのきっかけは、映画の後半、ナウシカが自分のグライダーから離れて両手を広げて「やめて〜!」と叫ぶシーンだった。この両手を広げたナウシカが、十字架にかけられたイエス様とだぶった。

映画のラストで、風の谷に向かって狂ったように走るオームの群れ。赤色の光も含めて、これは人間の罪に対する、神の怒りを象徴しているように思えた。

細かいいきさつは覚えていないが、オームの群れをおびき寄せたのはペジテ国で、オームの子供をとらえて傷つけ、そしてそれをつるしておとりにした。その目的は、風の谷にいる敵国トルメキアを全滅させるため。

映画の中で何回かナウシカその他の人物が、ペジテとトルメキアに対して「同じようなことをしている。」と指摘していた。この両国の争いに象徴されるように、人間の戦争には真の正義などない。どっちも自分が正しいと思っている。同じ穴のムジナということ。

巨神兵までも利用として戦おうとするこの両国の罪、それは人間の罪を象徴しているものだが、それに対して神の怒りがオームの群れとなって押し寄せた。

そこに、一人自分の命を投げ出して風の谷だけでなく、ペジテ、トルメキア両国まで救ったナウシカ。彼女の、身を呈した行為の後に、オームの群れの赤の攻撃色が、徐々に水色に変えられていく。

まさにこれは、キリストの十字架のみわざ、ひとつの義の行為により、全ての罪が赦されるという、キリストの愛の「型」と言えるシーンではないか。

さらにナウシカは一度死んでしまったが、オームの愛、それは神の愛を象徴しているのだが、愛によりよみがえった。この辺もキリストと重なる。金色の野を歩く復活後のナウシカは、再臨の時のキリストを彷彿とさせる。

というわけで、「ナウシカ」はとてもキリスト的な映画と言えるのではないだろうか。

真に満たすお方
人間は、さまざまな欲求をもつ。

情欲、食欲、睡眠欲、名誉欲、物欲、金銭欲、知識欲、支配欲、征服欲など。

人に認められたいという欲求、好かれたいという欲求。ゲームなどをして「楽しいことをしたい」という欲求。「美味しいものを食べたい」という欲求。

睡眠欲や食欲のように、「満たされて、その状態から減っていき、また供給する」という性質のものもある。車がガソリンを必要とするように、人間が活動するには、睡眠、食料によって、活動によって減ったエネルギーを充填しなければならない。つまりこれらの欲求をためる器の大きさは、基本的には変わらない。減ったら、注ぐ。その繰り返し。

しかし、そのほかの欲求、情欲や名誉欲や物欲など、これらは性質が違う。常にエネルギーを注がれていないと活動できない、食欲や睡眠欲のような欲求ではない。活動によって減っていくから充填する、というようなものではない。

これらは、その欲求の器がどんどん「肥大」していく性質のものだ。

物欲がわかりやすいだろう。持てば持つほど、欲しくなる、ということ。

お金で言えば、貯金が増えれば増えるほど、もっと貯金したくなる。

何らかの功績で名誉を得れば、もっと大きな名誉が欲しくなる。課長になれば、部長になりたくなり、ゴールデン・グローブ賞を取れば、次はアカデミー賞が欲しくなる。

一見健全で好ましく見える、知識欲でも同じこと。知れば知るほど、知りたくなる。哲学者なんかその典型だろう。ただ自分の知りたいことを、自分のために知ろうとし続ける。

私は男性なので、情欲が一番わかりやすいかもしれない。

かつて私が性的不品行の罪の真っ只中にいたとき、満足や興奮を求めて、次々と新しい偶像を求めた。それは一瞬の満足を提供したかもしれないが、それだけだった。そして、それに飽きてしまい次の偶像を求める。この繰り返しだった。

物欲や名誉欲などでも、同じことではないだろうか。求めて、満足し、飽きてしまい、また求める。満ち足りた状態が継続することはない。

と。私がわざわざこんなことを書かなくても、実際に感じるか、もしくは考えつくかして、同様の結論に達している人も多いだろうと思う。そのような人は、「求道者」になっていくはず。人生の目的は、意味のある人生とは、真理はあるのか、あるとすれば何なのか。神は存在するのか。それらを求めるのが求道者。かつての私もそうだった。私は哲学に真理を求めたのだが、かじっただけで終わってしまった。

もしくは、ここ20年ほどの、日本の物質社会が国民に与えてきたものに人々が飽きてしまった結果、人々は人知を超えた「スピリチュアル」なものを求めるようになっているのかもしれない。

私たちが本当の意味で満足するには、私たちの「霊」が満たされなければならない。上で述べてきたような欲求は、すべて「肉」か「魂」に属するもの。それは全て二次的なものだ。

霊とは、私たち人間を人間たらしめるもの。人間において、神と対話する領域。人間以外の動物に霊は存在しない。もちろんそれを証明はできないが、私はそう信じている。

私たち人間は、霊的な存在ゆえに、本能的に神を求める。日本には「困ったときの神だのみ」なんてことわざもある。プロ野球選手もインタビューで「野球の神様に感謝したい」なんて平気で言う。これらの単純な事実が、私たち人間が霊的な存在であることを示していると私は思う。

そして、その霊を、満たしてくれるお方こそ、イエス・キリストである。

私たちを真に満たすものは、キリストである。キリスト以外にない。

キリストだけが、私たちを満たすことができる。

私たちは、決してキリストに飽きることはない。キリストを味わい尽くしてしまって、別のものが欲しくなるということは有り得ない。

なぜなら、私たちはキリストにはなれないから。

キリストをいただいた者は、キリストのようになりたいと願う。

キリストにはなれない。しかしキリストのようになることはできる。

キリストのようになること目指す人生が、最高の人生であると私は信じる。

その真の満足を得る方法は、実に簡単だ。

物欲や名誉欲を得るために必要になるような、労力などは全く必要ない。

お金もいらない、人間的努力もいらない。

ただ、単純に、求めればいい。

「私は自分の人生に満足できません。もしイエス・キリストが私を満足させることができるのなら、私にそれを教えてください。私はイエス・キリストのことが知りたいのです」

と、心の中で思うだけいい。

そうすれば、必ずイエス様は、その思いに答えてくださると、私は信じる。
恐るるに足らず
サタンは、本当に嫌らしい存在だ。

私たちが気づかないうちに、気づかないように、攻撃してくる。

あるときは、私たち自身の心に、直接誘惑という形で攻撃をしかけ、

あるときは、他者からの言葉による攻撃と言う形で、攻撃をしかけてくる。

そして、大抵の場合、どれがサタンの仕業で、どれが自分や他者の罪によるのかわからない。

だから、他者に対して、「あなたはサタンに惑わされている」などと言うことはできない。

自分に対して、「これはサタンの仕業なのだろうか」と問うことはできる。助けを求めて祈ることはできる。しかし、疲れていたり余裕を失っていたりすると、なかなか気づくことができない。

サタンの仕業なのに、それが自分の罪のせいだと思い込んでしまい、自分を責める。

そして、「自分は本当は救われていないのではないか」「もう神様は私のことなんか愛してくれないのではないか」という思いに至ることさえある。そうなれば、それこそサタンの思うツボだ。

サタンは、私たちのちょっとした心の隙をつくのに長けている。

ちょっとでも私たちが油断すれば、サタンは攻撃できる隙間を見つけ、そこから攻撃を開始する。

人から褒められたりしてちょっと得意になったり、

もしくは自分の苦手な領域に秀でている人を見て、ちょっと妬ましい気持ちになったり、

ついうっかり他人について、真実と少しずれたことを話してしまったり、

そんなわずかな心の油断、心の隙間を、サタンは見逃さない。

だから、私たちはいつも、気をつけていなければならない。

サタンに私たちの心を攻撃する機会を与えてはいけない。

しかし、私たちを勇気づける、以下の真実がある。

サタンの攻撃は、それがあるときはいつも、神様のフィルターを通してのみ、なされる。

神様は、サタンがどの人にどんな攻撃を加えようとしているのか、すべてご存じだ。

だから、その攻撃を止めることもできるし、攻撃から守ることもできる。

神様には、不可能はない。ゆえに、止めることのできない攻撃などない。

もし、神様が、サタンが攻撃するのを許されるとすれば、そこには神様の何らかの御旨があるからだ。

それがどのような意味をもつのか、いつもわかるとは限らない。わからないことの方が多いかもしれない。

しかし、神様は、私たちにとっては好ましくない、悪い出来事さえも、私たちの益に変えることに長けておられるお方だ。

そう考えれば、サタンの攻撃、恐るるに足らず、だ。


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決断
もう、4月も終わりになった。

私のブログを継続的にご覧になってくださっている方の中には、現在の私について、以下のような疑問をもたれている人もいるかも知れない。

「沖縄行きの話は、どうなったんだろう?もしかしてもう沖縄に行ってしまったのか?」

去年7月頃から、数回にわたって、YWAM(Youth With a Mission)、DTS(Diciple Training School)沖縄のことを書いてきた。それとの出会いと、導かれた過程について。

そして、今年度のDTS沖縄は、4月中旬に始まっている。

と、こう書けばもうおわかりだろうが、私は今、沖縄にはいない。実家のある横浜と、教会のある東京、埼玉を往復する生活が続いている。

つまり、沖縄行きを、断念した、ということ。

今年3月あたまくらいまでは、行く気マンマンと言うか、沖縄行きについてまったく迷いはなく、それが御心にかなったことだと信じていた。4月からの沖縄での生活と学びについて思いを馳せていた。

しかし、それから、あることをきっかけに「迷い」が生じてきた。

「果たして、今年の4月から半年間東京を離れることは、今の自分にとって望ましいのだろうか。4月からの半年間、沖縄で得られるであろうことと、沖縄へは行かずに今いる場所に留まって得られるであろうことは、今の自分にとってどちらが大事なのだろうか。」

私の中に「残留」という選択肢があらわれ、「沖縄行き」を完全に指していた心の針が、動きはじめた。

当然、祈りをもった。どちらに御心がかなっているのか、教えてください、と。

それからの私の心の変化は、上記の二つの選択肢のあいだで、心の針が「揺れ動く」という感じではなかった。動き出した針は、徐々に、「残留」に向かって動いていき、そして固まった。

残留すべきだ、ということを示すような、御言葉による示しがあったかというと、そうとれなくもない御言葉が与えられたことは確かだ。しかし、それだけを根拠にすることはもちろん、できなかった。

3月下旬には結論を出さねばならなかったため、残された時間は多くはなかった。だから私は、100%の確信があったわけではなかったのだが、「残留」の決断をくだした。自分が以前に書いた記事「踏み出す勇気」における状況を、まさに自分が味わうような形となった。

その決断を鈍らせる要素は、昨年6月のDTS沖縄との出会いと、それに「神様が呼んでいる」と私が信仰的に解釈した7月の出来事は、何を意味していたのか、という疑問だった。

この疑問に対する答えは、まだもっていない。

今は、与えられた今いる場所で、神様の栄光のために、全力をもってすすんでいくのみ、である。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
ピリピ 3:13-14


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